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落涙は無色透明無味無臭
長坂で劉備をあと一歩というところまで追い詰めた張遼には鬼気迫るものがあった。双鉞の先が黒く塗りつぶされており、焦げているのかと目を凝らしてみると点々と広がる模様は血が幾重にも重なって酸化しているのだった。
立ちふさがるものは誰であろうと容赦なく切り捨てる、その様はさながら死神であったが、功を上げている張遼にそのような言葉を掛ける人間はいなかった。
「まるで鬼神だな」
唯一、夏候惇だけが曹操にそう言った。
「女、子供も容赦なく、だ。お前がなにか言ったんじゃないのか? 孟徳」
「何も考えぬよう伝えた」
「やはりな」
「なんじゃ。何か不服があるか?」
「ゐや……」
じろりと睨まれ、夏候惇は口をつぐんだ。書簡にすべらせていた筆を止め曹操は宙を見る。
「アレは協調性がない。他人と馴れ合おうとする心が欠落している故に、他の者の気持ちを想像することが不得手なのよ。張遼のなかには誰もおらぬ」
「誰も、居ない?」
「そうだ。誰もいない」
大切な者くらいアイツにもいるだろうと夏候惇は反論したが、曹操は首を横に振った。
「お前ふとしたときにワシのことを考えるときがあるだろう。雪が降っていたら、孟徳風邪ひかないように温かくしているかな、とか」
「……それは、まあ。ふつう誰でも考えるだろ」
「考えられない人間もおる、という話だ」
それから夏候惇は注意して張遼を観察するようになった。
夏侯淵と共に張遼部隊の訓練の様子を壁にもたれて眺めていた。
「すげえな。張遼のやつ」
広い訓練場に張遼の怒声と檄が容赦なくとんでいる。
「ああ。鬼神を見ているようだ」
「ハハハ。鬼神か。何でも殿も張遼に言ったんだってな。ワシの刃だ! って」
「ああ」
「アイツもう人間じゃないな」
あっけらかんと夏侯淵は笑った。
訓練場に似つかわしくない甲高い声がふたりの元に近づいてきて、振り向けば城壁のうえでまだ幼い夏侯覇が身を乗り出して大きく手を振っていた。傍には張コウが控えていて、うやうやしく頭を下げている。
先の戦で怪我を負い、今の今まで静養していた張コウの大丈夫な様子に夏侯淵は喜んだ。
「おお、張コウ! お前体の具合はもういいのか」
「はい将軍。もうすっかり、この通りです」
「そうか。大したことなくてよかった、よかった」
張コウの回復を溢れんばかりの笑顔で迎え、反対にぐるりと足元の夏侯覇には厳しい視線を向けた。
「夏侯覇、お前張コウに我が儘言ってねえだろうな?」
「言ってないよ! 覇はちゃんとよい子にしていましたよ」
「よし! さすがはオレの息子だッ」
打って変わって明るい表情でばんざいをしている夏侯覇を抱き上げた。
仲睦まじい親子の様子を、夏候惇と張コウは静かに眺めていた。
「覇よ。よく見ていろよ。お前ももう少し大きくなったらこうして訓練に出るんだからな」
殿を守れるように強くなれ。
そう言われ、初めは楽しそうな面持ちで訓練を眺めていた夏侯覇だったが、徐々にその表情は曇っていった。
「やだ。覇はくんれんでない……」
「なに?」
「おれ戦、やだ」
「何だと! それでもオレの息子かッ」
「よせよ、淵」
「そうですよ将軍。あのような張遼殿を見れば、誰だって怖がります」
夏候惇の手前でも、夏侯淵は怒りが収まらないようだった。でもよ惇兄ッ俺たちの兄弟にはもっと小さい時分から弓だ槍だで遊んでたやつがいただろう。コイツはそういうものに近づきもしねえんだ。女みてえに花とか、動物とかで遊んでんだよ、オレ様の息子が『男女』なんて、オレは許せねえんだよ。
こうなった夏侯淵を止めることは難しい。夏侯覇はおびえ、ついにはその大きな瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。張コウが母親の代わりをかってでて泣きじゃくる夏侯覇を両腕で抱きしめなぐさめた。
夏侯覇は腹の底から怖がって泣くし、夏侯淵は憤怒で我を忘れて怒鳴っているし、なんだかもう五月蠅くて仕方がない。夏候惇はため息をついて頭をかいた。
ふと見ると訓練場の一角に不自然に人垣ができており、不審に思った夏候惇はその中心に駆け寄った。
周りにいる兵士たちにどうしたのか問うと、張遼将軍が負傷したと言う。
幸い手の先を切っただけのようだったが傷口を抑えた拍子に汚れたのだろう、両手が紅く染まっている。
「おい。大丈夫か」
「……夏候惇将軍」
うずくまっていた張遼はずいぶんと驚いた表情で夏候惇を見上げた。
ずいぶんと呆けた表情で夏候惇を見やったあと、張遼の頬を光るものがこぼれおちた。
実際のところそれは汗の粒だったのだろうけれど夏候惇にはそれが張遼の涙に見えたのだった。
「惇兄ー!」
振り向くと夏侯淵が大きくこちらに手を振っていた。
「悪いけど、オレァ先に戻ってるからなーッ」
べそをかいている夏侯覇を抱いた張コウがこちらに歩いてくる。
全く、あいつは……夏候惇がため息をついている間に張遼は副官に短く指示を出し、夏候惇へは短く拱手し足早に去って行った。医務室に向かったのだろう。
「夏候惇将軍。ワタクシたちも失礼します」
「…………」
「将軍?」
「張遼のやつ冷たいよな」
「そうでしたか?」
「お前長坂では張遼と一緒に進軍してたよな? あいつって誰に対してもあんな感じなのか?」
「いつもああですよ」
「孟徳が張遼のこと、大切な人間がいないんだって言ったんだ。あいつが空っぽだって」
でもそんなのってないだろ。それじゃあまるで、人間じゃないじゃないか。人間じゃないなんて有るか? 俺にとって孟徳や淵がいるように張遼にだっているはずなのに。あいつの周りにもたくさんの人がいて。それなのにあいつはひとりぼっちなのか? そんなのってあんまりじゃないか。あんまりにも、さびしいじゃないか。
張コウは美麗な目元を伏せた。
「思うに、張遼将軍は大切なひとを亡くしているのではありませんか?」
夏候惇の脳裏にかつて張遼の周囲にいた人間の姿が浮かんだ。
呂布、貂蝉、陳宮……記憶はまちまちだったが未だに覚えている。あの時受けた左目の傷が再び痛むような心地がした。
「ワタクシも経験がありますよ。仲間が死んで自分だけ生き残るということは辛いことです」
「……それは、」
「ですが新たな出会いがその傷を癒してくれます。新しくできた大切なひとはもう絶対に失いたくないと思うものですからワタクシの場合は少々甘やかしてしまいますが、張遼将軍はおそらく親しくなるのが怖いのでしょう。失ったときそれだけ辛くなりますから」
張コウは自らの腕のなかの夏侯覇の頭を撫でた。
「とんにぃおじさん」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を服のそででぬぐっている。
「ちちうえ、おこったの……」
「そうだな。怒ってたな」
「あやまっ……ヒック、あやまりにいく」
「ああ。行って来い」
淵もきっと許してくれるよ。夏候惇も夏侯覇の頭を撫でた。
「いっしょにきて、とんにぃおじさん」
「……俺がか」
「いっしょにきてよぉ」
困っている夏候惇に張コウが、「そういえば張遼将軍は子どもがお好きみたいですよ」と告げた。それを聞いた夏候惇は、よし、とひとつ気合いを入れ、張コウから夏侯覇を引きとった。
END